さて、80年代初期のナムコなどに見られた典型的ステージ構成に従って、ここは番外編と して当時の佐賀大学周辺のゲームセンターについて少し書いておこうと思います。
蛇足ですが、当時のアーケードゲームの面構成のあるパターンといったものがあって、通 常のゲームを3面こなすとボーナスステージに入るというものでした。最初の1クールに 限っては2面でボーナスステージへという感じで、これは、実質の最終カウント面の255面 をキリ良くボーナスステージに当てるためかどうか分かりませんが、その代表は、ナムコ のディグダグやギャラガです。この構成は、パックマンのコーヒーブレイク辺りから派生 させたものだと思われます。
また、この変形として、ナムコ以外のメーカーでもマリオブラザースのような面数の間隔 を広げたケースや、忍者くんのようにボーナスステージへ入る条件を新たに付け加えたケ ースなどがあります。コーヒーブレイクとしては、Mr.Do!辺りがこれを継承しています。
本編では、私の記憶に残る思い出のゲームについて1章1ゲームを取り上げ徒然なるまま に書いていますが、ボーナスステージとしてそれ以外のことについても書いていきたいと 思います。
私は、宮崎県日南市出身ですが、最初にとある雑居ビルの階段の踊り場にあるスペース・ インベーダーをプレイして以来、ボーリング場にあるゲームコーナー、またボーリング場 が潰れた後に出来たゲームセンター、デパートのゲームコーナー、そして喫茶店に置いて るゲームなどでギャラクシアン、ヘッドオン、クレイジー・クライマーなどを経た後に佐 賀市入りします。
時間を気にせず安価にゲームを楽しめる、24時間営業のゲームセンター"イエナガ"。 ゲーム好きにとっては、そこは、まさに天国のような環境でした。もちろん、後々ここで ゲーム仲間が増えていくと言うことも重要な要素でした。
入学当時は、このイエナガに加えて南部バイパス側にタイトーの直営店であり、後にアル バイトも経験することになるジョイパックがありました。ただ、こちらの方はタイトーの 直営店であったことも影響して当時隆盛を極めていたナムコブランドを始めとして、今ひ とつ自分の気に入ったタイトルが置いて無くて、私の個人的なイメージとしてはラインナ ップがパッとしませんでした。
また、その後、1プレイ50円が主流になったときも100円のままで、さらに足が遠のいたの で、特にそこでしかプレイできないゲームでもない限り、積極的に足を運ぶことはありま せんでした。
タイトーのイメージを一新するバブル・ボブルの源流が見られるようになる、フェアリー ランドストーリーや幻のちゃっくんぽっぷが置いてあった頃は、それでも足を運んだ方だ と思います。最初の頃はギャラクシアンも残っていたので、ギャラクシアンの攻略を継続 するという意味でディグダグにハマる前にはよく足を運んでいました。
イエナガを本拠地としていた私でしたが、少し経ってからイエナガとさほど遠くない所に ラスベガスという1プレイ50円のゲームセンターが出来ることになります。これによりイ エナガも2プレイ100円というスタイルに移行し、我々学生にとっては、よりゲームにハマ る環境が促進されました。ただ、2プレイ100円は、好きなゲームならまだいいのですが、 特に続けてプレイしたくない場合や上手くなり過ぎたゲームでは捨てゲーになってしまう 場合もあるので、一般にはあまり受けは良くなかったことでしょう。
イエナガは、独特の迷路のような作りをしていて、一般的には動きにくい感じがするかも 知れないレイアウトでしたが、逆に壁のない部屋割りしてるような感覚で、全体的な広さ は程良く、お気に入りのゲームセンターでした。おそらく以前飲食関係か何かの店舗だっ たのが、ゲームセンターに変わっていたのかも知れません。この迷路のような作りが、逆 に独特の雰囲気を作っていて結構お気に入りでした。
これに比べて後発のラスベガスは、あまり好みのレイアウトのゲームセンターではありま せんでした。変わる前は確か居酒屋か何かだったと思いますが、フロアの狭い感じと、全 体が見渡せるが故の単調な感じがあり、ゲームの音もうるさく、私的には良い環境とは思 えなかったからです。
主戦場はあくまでイエナガで、パンチアウトやアイスクライマーの様なイエナガにないゲ ームが入るとラスベガスでプレイといった感じでした。また別のケースでは、標準設定の ゼビウスで1000万点を出しに行くという感じで、実際20回近くはラスベガスでカンストを やっていたはずです。
後発のラスベガスは、50円設定が功を奏したらしく、間もなく大学からさらに北へ離れた ちょっと先にホワイトハウスという姉妹店を出すことになります。ここは、広さがあった だけに、後に大型筐体のハングオンやスペースハリアーといった目玉商品が入荷されて我 々もよく足を運ぶことになります。ミステリアスストーンズやリターン・オブ・ジ・イン ベーダーといった作品もここで遊びました。
イエナガ 対 ラスベガスという佐賀大学前ゲームセンター同士の攻防は、ラスベガスがや や有利に映りましたが、私たちは、やはり馴染みのあるイエナガを拠点としていました。
この後、大学近くのゲームセンター数はさらに増えていくことになります。当時は、家庭 用ゲーム機のファミコンもそれほど普及していなく、気軽にコンピュータゲームをするな らゲームセンターでしたから、需要はあったのでしょうが、それにしても乱立状態になっ ていきました。また、今と違ってコンシューマ用ソフトとアーケード用ソフトに格段の隔 たりがあったため、ゲームセンターの方が本格的といった感じもしました。
さすがに時系列では覚えていませんが、イエナガ自体も姉妹店のジュピターを大学側の北 側に出し、また南部バイパス側にはオリオンという全く別のゲームセンターが出来ていま した。ここでは、フリッキーのカンストを達成した思い出があります、ここは南部沿いと 言うこともあって午後は太陽光線がもろに当たってしまう環境で、そういう意味ではマイ ナスのイメージがありました。
太陽光線と言えば、テーブル筐体に段ボールをくり抜いた物が載せてあって、光の反射を 防ぐといったお店の工夫を覚えている人も居るかも知れません。今では幻となったテーブ ル筐体は当時の主流で、逆にアップライト筐体の数の方が少なかったはずです。背が低い ためゲームセンター全体を一望できるのはこの筐体のメリットかも知れません。
ジュピターとホワイトハウスの間には、ゲームセンターとすら言えない管理人も誰も居な い放置状態のミッキーマウスがありました。しかし、ここは置いてあるゲームがユニーク でした。ゼロイゼやマウサーなどレアタイトルをプレイするためには狭い2階建てのこの 場所へ足を運ぶ必要がありました。管理人が全く不在のため、ライターや5円玉を利用し たイリーガルなプレイの被害があったのも記憶に残っています。
大学を離れる頃には、最終的に、イエナガ、ラスベガス、ホワイトハウス、ジュピター、 ジョイパック、オリオン、ミッキーマウスと、大学の周りだけでも7軒という乱立状態に なっていました。いろいろなゲームを遊ぶ幅が広がるという面では、我々も恩恵を受けて いるような気がしました。
大学周辺以外のゲームセンターにももちろん足を運ぶことはありました。ちょっとレコー ド(当時はCDはまだ無い)や中央商店街に何かを買いに行ったついでにとか、やはり途中 で見かけたゲームセンターにはチェックを入れるのが当然の行動です。見慣れない珍しい ゲームは無いだろうか、新しいナムコの新作がいち早く入ってないだろうか、見たことも ないようなハイスコアが出ていないだろうかと、チェック項目も一つではありません。
大学と佐賀駅の途中にある商店街や中心地には、タイトーの直営店ジョイフル2などがあ り、ここでは、アタリのスターウォーズなんかをプレイしたりした思い出があります。ナ ムコの新作モトスが入荷したのを聞きつけてわざわざ足を運んだのもこの辺りでした。パ チンコ屋の多いこの辺りの情報は、仲間のパチンコ屋メンバーからも時折入っていたので した。
1982年からの4年間の間では、行きつけのイエナガもかなり様変わりしていきました。
さて、私の拠点であったゲームセンター・イエナガですが、ここは大きくな部屋が3つ連 なっている迷路状のところにビデオゲームやピンボールが設置されていたわけですが、姉 妹店のジュピターが出来た後にこのイエナガも大きく模様替えすることになります。より 広くするため壁をぶち抜き、それに加えてさらに横に敷地も広げて、全体としては長方形 の箱形になり、料金体系も暫定的な処置だった2プレイ100円から、ライバル店と同じよう に1プレイ50円に移行していきます。
ピンボールは置いてありましたが、大型店にあるようなコインゲームなどはありませんで した。
また、当時コンビニなどもなかったため(かなり後になって北側にセブン・イレブンがお 目見えする)イエナガでは夜お腹が空くと、自動販売機の天ぷらうどんをよく食していた ものですが、一時期は客寄せを狙って、お好み焼きをゲームセンター内で販売していたり もしました。後々これは無くなりますが、やはりこの辺にもラスベガスが出来て売り上げ が落ちたのだなと思わせる営業という観点からはある種切羽詰まったような感じすら伺え ました。
ゲームセンターでは、かなりの確率で知り合いが同じ時間を共有していて、2プレイでゲ ームをしたりすることもありましたが、休んでいるときには食事をし、番が回ってきたら プレイするといったのんびりした遊び方もよくある形でした。近くにおいしい弁当屋があ ったので、弁当を買ってきて友人のプレイを見ながらそこで食事を済ませると言うことも 珍しくありませんでした。
イエナガの管理は、バイトでも誰でもなく"イエナガ"のおばさんが掃除や両替 機の管理やっていましたが、徹夜明けで朝まで居たりすると、常連の我々に缶ジュースや 自販機の天ぷらうどん、時には若干のクレジットを提供してくれたりしました。帰省して いる時以外、ゲームセンター・イエナガに居ない日は無いくらい通い詰めていましたから、 当然顔は覚えられているわけですが、それにしてもいろいろ親切にしてもらったのを覚え ています。
また、イエナガには、マスコットキャラクターとも言えるべき、常連にはよく知られた犬 が居ました。この犬は雑種と思われる日本犬でしたが、ほとんど放し飼いにされており、 ゲームセンターに行かなくても大学周辺で見かけることもよくありました。ご主人と散歩 に行く前には、ゲームセンター内を楽しそうにはしゃぎ回ることもよくありました。この 犬の名前はチビという名前でしたが、お店の人と仲良くなるまでは、この犬の名前はツン だ、とか何だとか仲間内と勝手に名前を付けて呼んでいたこともありました。
この犬は我々常連のこともよく知っていて、ゲームをしている横で意味もなくじっと座っ ていることや、プレイしている最中に足を膝の上に乗っけてきたりしてじゃれついてくる こともあり、なかなか人なつこくていい犬でした。
ナムコのカリスマ化が減衰していくのが1986〜87年辺りからで、ゲームセンター・イエナ ガは、そのブームの全盛期とも丁度シンクロしていて、私の思い出の中でもかなり重要な 位置を占めていました。
1980年代の学生が屯するような24時間制のゲームセンターは、昼間もそう管理人が顔を見 せることもなく、真夜中は無人で照明も無し、一種独特のアンダーグラウンドで、サブカ ルチャーっぽい雰囲気も漂っていました。時には社会的なイメージ通り、不良連中が顔を 見せて悪さをすると言うこともありましたが、ゲームを好きなときに好きなだけ遊べると いう環境は、何ものにも代え難い貴重な場所であり、友人との交流の場所でもありました。
なんとなく夜中にふらっとイエナガに行って一人ゲームをすることもありましたし、そう いうとき偶然仲間が居たりすることも珍しくありませんでした。そして、そういう雰囲気 が好きだったのです。平日の真夜中から朝近くになるとさすがに居ても数人といった感じ でしたが、土曜日などは、徹夜組もちょっと居たりしました。
今では、コンピュータゲームを取り巻く環境も様変わりし、より自由に遊ぶことも出来る ようになりましたが、ゲームセンターで1コインを投じ、その1ゲームに魂を込めるとい った感覚は独特のものがありました。メーカー側もインカムが直接売り上げに影響するの で真剣勝負だったと思います。
私自身、もともとゲームという物に興味を持ったのはアーケードゲームが初めてではあり ません。小学館の雑誌に付いていた付録も遊びましたし、小学生の頃には将棋も覚えまし た。大学に入ってからはウォーゲームも買いましたし、そして現在はアナログゲームサー クルにも足を運んでいます。ゲームセンターにもチェックは入れますが、現在ではどちら かというと、そちらの方で遊ぶことが多いです。
例えばアナログゲームでは、その性格上数人で同じゲームを遊ぶことになり、実際それが 楽しさの一つなのですが、1人プレイが普通であるアーケードゲームでも、実は友人やラ イバルと言った存在があってこそ、そのゲームで遊ぶことの魅力がさらに倍増されること は間違いありません。
行きつけのゲームセンターとそこで知り合った友人達、そして世に出ては消えていった数 々のアーケードゲーム。それは、まさにお金では買うことの出来ない思い出の数々であり 心の宝物です。
2002.04.24(ed.4)
2002.03.27(ed.1)