SUPER SOFT MAGAZINE 誕生!
(ボーナス・ステージ 其の3)


   3面読み終わればコーヒーブレイクです。今回は、80年代に私たちのゲームライフに多大 な影響を与えた小冊子 SUPER SOFT MAGAZINE を中心に書いておきたいと思います。

   今ではコンシューマゲーム機の普及によって、その情報誌がメーカー側の販促目的も相乗 りして数多く刊行され、書店に行くとそのようなゲーム雑誌が平積みされていたりします。 アーケードゲームもその中で一部扱ってあったり、また専門誌もごく僅かですが見ること が出来ます。

   1982〜83年頃、テレビゲームまたコンピュータゲームといえば、アーケードゲームかパソ コンゲームでした。パソコンは当時はまだマイコンなどと呼ばれていた頃で、徐々にコン ピュータが一般人の手に普及し始めた頃ですが、雑誌の方もこれに呼応するように発売さ れており、理系人間はマイコンやI/Oといった雑誌をよく立ち読みしていたものでした。

   ゲームの情報、バグや裏技、攻略法のヒントなど、そういった雑誌の一部に載っていたの を見つけてはニヤリとしたものです。例えば、I/Oという雑誌には、各ページの下の方 に数行読者からの投稿を紹介している部分があり、そこなどは貴重な情報源の一つでした。 実際にここで手に入れた情報を試したりと行ったことも多くありました。

   電波新聞社のマイコンBASICマガシンもそういった雑誌の一つでしたが、1983年の終わりに、 パソコンでゲームをプログラムする人のためのこの雑誌に、ある小冊子が別冊付録として 付き始めるになります。

   創刊号でマッピーを特集したその小冊子は、まさに我々の待っていたものでした。ゲーム の専門誌的な内容で、アーケードゲームだけでなく海外の話題のパソコンゲームなども紹 介していました。ここで、海外のパソコンゲームを見ては、いつかは AppleII でゲームを とか漠然とした憧れを持ったりしていたものでした。その薄さ以上に非常にインパクトの ある情報誌でした。余談ですが、私の"りんごコンプレックス"はここに始まっ ているのでしょう。

   マッピーも大好きなゲームだったので、そこにまとめられていたバグ技などを見て、非常 に面白いと思ったし、またこの記事に携わっていたうる星あんずというプレイヤーのプロ フィールにも刺激を受けました。ハイスコアラーがメディアに大きく取り上げられた最初 の例かも知れません。

   後に、メディアに出たお陰で、いろんな目に遭ったとこぼれ話も語っていますが、私自身 はポジティブな刺激を受けました。あまり有名に成りすぎると、ちょっと嫌な思いもする というのは、ハイスコアラーも例外ではなかったということでしょう。

   そして、従来の情報源もチェックしながら、特集の他にもミニ情報なども載っており、翌 号からこの付録を見るのが何よりの楽しみとなっていました。新しい号が出たときは、必 ずゲームセンターに持参し回し読みしたものです。

   次の号では、ゼビウスが特集され、またハイスコアを集計するという予告がされていまし た。チャレンジ・ハイスコア、通称チャレハイの誕生です。これで、全国のハイスコアラ ーが刺激を受け、各エントリー店でハイスコアを出しては申請し、雑誌に名前を載せるこ とを夢見ました。

   ここでちょっと付け加えておくと、ゲーム情報誌的なものとして、それ以前にアミューズ メント・ライフという今では知る人ぞ知る雑誌もありました。この雑誌では、いち早くハ イスコアを載せたりしていましたが、この雑誌は佐賀市街で見かけた後、その見つけた書 店でも入荷されなくなり、さらにその後休刊、事実上の廃刊となってしまいます。そうい った意味もあって、SUPER SOFT MAGAZINE の重要性は非常にあったのです。

   アミューズメント・ライフでは、かなりおおざっぱにハイスコアが載せられており、永久 パターンやもしかすると虚偽のものも含まれていたかも知れません。ただ、時代を先取り していたのは間違いなく、後の新声社のザ・ベスト・ゲーム的な集大成別冊まで予告して いたので、その休刊は非常に残念でした。また、別冊も最終的には発売されなかった模様 でした。

   SUPER SOFT MAGAZINE では、特にナムコの作品がピックアップされ、新作の発表がされる と、その入荷を心待ちにするといった具合でした。リブルラブルやフォゾン、ドルアーガ の塔、グロブダーなどはその最盛期のゲームでした。背面にナムコットが広告で載ってい たりしたので、ナムコとは特別に提携していたのでしょう。

   この小冊子では、ハイスコアだけでなく、その他にも全国のゲームプレイヤーの動向が見 受けられました。その一つが同人誌の存在です。ゲームフリークやVG2、AMP、BGMといった 同人誌は、ゲームプレイ自体にもお金を使っている貧乏な学生としては全て買うことは出 来ず、とりあえず私はゲームフリークに絞ってこの後申し込むことになります。ゲームフ リークを運営していたのは、田尻智、後にゲームクリエイターとなり、さらにその同人誌 の名前を冠した会社を興し、ポケットモンスターを生み出したその人です。

   入会申し込み後、彼直筆の手紙をもらい、会員番号No.251として、自分も購読を続けます。

   その手紙を見ると、彼も相当な凄腕プレイヤーでした。ゼビウスはもちろんのこと、古く はスペースインベーダーやミサイルコマンドなどでも一流のスコアを叩き出していること がプロフィールとして記述されていました。ゼビウスの噂、犬やファントムなどのことも 簡単に書かれたりしてあり、生の感触伝わるその手紙を見て、自分と同じような感性を持 ち合わせている本当にゲームの好きな部分が伺えましたし、もっと交流を深めたいとも思 いました。

   今では、ポケモンのカードゲームも持っている私ですが、アーケードゲームで知った彼が アナログゲームの世界まで影響を及ぼしたことを考えると、不思議な感じもするし、やっ ぱりゲームが好きだということには変わりないという思いもありました。NIFTYのFGAMEの かつての定例金曜チャットでは、関東在住のある方から、モノポリーも一緒にやったこと があると聞いて、田尻氏がゲーム全般に興味を持っていたことも裏がとれましたし、また 彼自身もいろいろな著作やインタビューなどでそのこと語っているようです。

   SUPER SOFT MAGAZINE がきっかけで、田尻氏のゲームフリークを知り、またナムコのロケ ーションでただで貰える情報誌NGも知ることになります。学生時代、この3つは欠かすこ との出来ないアイテムでした。NG自体は、特に情報性よりも、ナムコアイテムとしての価 値が高かったと言えます。

   ナムコと言えば、NGの他にもディグダグやポールポジションなどで、豆本と呼ばれる小冊 子なども時折発行してファンサービスをしていたようです。その辺りも他のメーカーには ないサービスに好印象を与えていたのでしょう。

   AMPは、現在でもインターネット上で活動を継続している希有なケースで、特にゲームカタ ログ方面に情熱を燃やし続けています。その昔、パソコン通信のNIFTYのアーケードフォー ラムのチャットで間接的にその関係者と話したこともありました。

   VG2は、当時最大規模を謳っていたサークル連合で、後にここからGAMESTという国内唯一の アーケードゲーム専門誌が誕生することになります。SUPER SOFT MAGAZINEでVG2の存在を 知り、それが私が社会人になるその年に商業誌として全国書店で発売される。地元の日南 市で最初に創刊号を手に取ったときは、私も関係外ながら感無量といった感じすらしまし た。

   このGAMESTの誕生により、行く行くはハイスコア集計がSUPER SOFT MAGAZINEとの二元化の 時代を迎えます。

   ハイスコア争いでは、地方より進んでいる都会の状況を知ることが出来、またそれ以外の 地域でも全国一といったレベルのスコアが記録され、それを見るたびに驚いていたもので す。特にリブルラブルやパックランドといったゲームの全国一スコアには、自分も凝って いたゲームだけに驚きが大きかったことを思い出します。

   また、出来ればそこに自分の名前を載せるといった事も一つのプレイヤーとしての憧れに なっていきました。もちろん目指すは、最初の全国一欄です。

   私自身は、帰省の折、神宮前キャロットハウスで、ギャプラスやフリッキーなどをやり、 ハイスコアボードに記録を残しました。また、ゼビウス1000万点が一括表記される前にも 間にあって、遅ればせながらしっかり1000万点プレイヤーとして名前を記すことが出来た のはラッキーであり、非常に嬉しかった覚えがあります。

   SUPER SOFT MAGAZINE は、別冊付録であったため、かなり盗難にもあっていたようです。 その後、BASICマガジンの中に組み込まれていき、GAMESTという同人誌VG2から発展した商 業誌─唯一のアーケードゲーム専門誌が出てからは、その希少性も薄くなり、やがて姿を 消すことになります。

   しかし、この薄い別冊付録が我々ゲームマニアにもたらした影響は、今では計り知れない ものがあります。

   商業誌 GAMEST は、その後廃刊の憂き目にあいますが、間もなく ARCADIA というこれに 代わる雑誌が出て、我々の不安を一掃してくれました。コンシューマ機器が充実していく 時代にあって、なかなかアーケードゲームも辛い時代にあるかもしれませんが、是非とも 継続していって欲しいと思います。

   本体のマイコンBASICマガジンは、当時コンピューターでプログラムを打ち込んでゲームを 作ったり、遊んだりする人間にとっては面白い雑誌でした。他人の作ったゲームで遊ぶ、 またそれを見てプログラムを学ぶ、そういった雑誌でした。

   今では小学生でも学校で気軽にコンピューターが扱える時代、当時は、大学の数学科では 最終学年でせいぜいフォートランで簡単なプログラムという程度の扱いだったのです。コ ンピューターに明るくなるには、バイトに励んでマイコンを買い独学というのが一つのス タイルであったと言えます。

   私自身、マイコンは持っていませんでしたが、やはり理系と言うことでコンピュータには 関心があり、マシン語のZ80の特集の載った雑誌を買ったり、時にはトランジスタ技術の別 冊を買ったりといったことはありました。その後大ブームとなるプログラミング言語Cが流 行る前に、同じ下宿の電気工学科のMatsugaki氏からこれからは、Cが流行るよ、と聞かさ れていたことも懐かしく思い出されます。その隣の主は、部屋で自ら作ったワンボードマ イコンをテレビに繋いでいたりしていました。

   当時は、素人がマイコンでゲームを作って、秋葉原などで売るといったことが珍しくなく 実は、私たちもシャープの人からゲームを作らないかという話が実際あったりしました。 これは、シャープ製のマイコンX1を買っていたShimazaki氏を通じてのものですが、H.M氏 も含めてやってみようかという寸前まで行きましたが、結局実行されませんでした。

   本気で取り組んでいれば、当時でもちょっとしたお小遣い稼ぎが出来たかも知れないし、 それ以上にその後の人生を変えていたかも知れません。後悔先に立たずです。

   そういえば、ゲームフリーク代表の田尻氏もそういうゲームコンテストに応募していたり しますね。ゲームプレイヤーは、ゲームを作るということにもやはり興味が湧くものなの でしょう。

   SUPER SOFT MAGAZINE を送りだした マイコンBASICマガジンは、パソコンどころかインタ ーネットも当たり前の現在、その主たる役目をほぼ終え、細々と生き延びています。しか し、一部の書店でこの雑誌を見るたびに、マイコンも持っていないのに、付録が目的で'80 年代にワクワクしながらこの雑誌を手にとって居た頃を思い出し感傷に浸ることも少なく ありません。

  
2002.04.24(ed.3)
2002.04.01(ed.1)


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