カルタ、加留多、または歌留多とも書きます。嘉留太と書くこともあります。骨牌と書い てカルタとよませます。刈田と書いたこともありました。花カルタ、いろはカルタ、歌カ ルタというふうにカルタという言葉は日本人の生活にとけ込んだ響きがあります。この私 たちが使い慣れたカルタという言葉が外来語であると聞いて驚く人もいるでしょう。
新村出氏の『賀留多の伝統と由来』の冒頭につぎのような文章があります。
カルタといふ名称は今では歌カルタに殆ど独占されてしまつたが、今日から三百五
十年ばかりも昔に、葡萄牙の船員や商人から、この遊戯がカルタといふ名前をはじ
め一々の札の呼方などと共に日本の貿易港あたりに伝はつて以来、速かに流行伝
播して色々の変形を起し又様々に日本化して維新時代に至つたまでの間は、カルタ
は主として今の所謂トランプ式のものをさし又おしなべて一般のプレーイング・カード
の総称とされてをつた。
さてこの葡萄牙のカルタが英語のカードと同源だといふことも容易に考へられるで
あらう元来英のカード、独のカルテ、蘭のカールト、仏のカルト及び葡西伊のカルタ、
いづれも拉丁語のカルタから出た語で、尚一歩遡れば紙葉の意味の希臘語のカル
テーに帰するので、英国史で有名なマグナ・カルタのカルタも右の拉丁語に外ならぬ。
明治十年代、壮士によってつくられた「よしや武士」のひとつに、
よしやカードは禁ぜられても
マグナカルタで遊びたい
というのがあったそうです。カルタはいうまでもなくポルトガル語、もしくはスペイン語
のcartaのことです。
この日常語になりきってしまったカルタという出所不明の言葉が、江戸時代の言語学者を 悩ませたようです。『色道大鏡』(延宝6年、1678)には、「かるたは夷狄より渡りたれば その根本を知らず。はう、いす、おうる、こつふなどの名目さえ弁へ知りがたし」とある ように、当時の人々はカルタという言葉の解釈に苦しんだようです。
カルタが賭博の道具であったために、いやしむべき賭博と軽蔑していた学者たちが、その
語源の追求などに至るまで意欲を示さなかったからです。これほど精緻な訓古学がすすん
でいる国で、つい戦前まで、カルタの語源がはっきりしていなかったということをみても
わかるでしょう。たとえば永い間絶版で、古本屋で高い値のついていた『日本遊戯史』に
は、
骨牌は、樗蒲とも賀留多とも訓じられてゐる。このカルタなる語は、一説に日本に
伝来後日本語化したものであるといふ説と、「和名抄」に樗蒲和名加利宇知云々とあ
れば、蛮語のなまれるものでなく、加利宇知の転語あると思ふ、なぜならばうちの
反語はつでつとたは相通ずるゆゑかるたといはるるやうになつた、といふ「博戯
犀照」説とがあつて、両説そのいふところを異にしてゐるが、思ふに山崎美成氏
の主張せる如く加利宇知の転語なのであろう。
とカリウチ説を採用しています。
わが国は第一波、第二波と前後二回の海外カルタ文化の洗礼をうけています。南蛮貿易の 波と共にカルタという南蛮のアソビ物がまぎれこんできたのは今から四百年ほど前のこと でした新奇愛好癖のある私たち日本人は、ポルトガル渡来のカルタをたちまち和製カルタ につくりかえてしまい、熱狂的なカルタ・ブームが生まれました。
有名な松浦屏風の女性がもてあそんでいるロザリオ、キセル、ビードロ、カルタなどは、 どれも南蛮渡来の品であり、この画家の意図はニュー・ファッションの女性群像を描くこ とにあったのでしょうか。
カルタがいかに人々や、兵士たちの人気の的であったかは、慶長2年(1597)三月、長曾 我部元親が、「一、博奕、カルタ、諸勝負令二停止一」と、カルタ賭博禁止令を 出していることからもわかります。これが今のところ日本で最も古いカルタ文献でもあり ます。
長い鎖国時代のあとカルタがプレーイング・カードとして、二回目の日本上陸をするのは 明治の初期と思われます。『世界遊戯法大全』(明治四十四年)の著者松浦政泰氏は、「 余が郷里の伊予松山で、始めて当時の県宮南挺三氏の家庭で之を遊んだのは、明治八、九 年頃であつたのを見ても、その輸入はずいぶん古いらしく、現に花骨牌と共に四季を通じ ての室内遊戯の大関の地位を占めて、仲々盛に行はれてゐる」と書いています。
しかしカルタが四季を通じて行われることはまずありませんでした。貞亨5年(1688)の 『浮世草紙正月揃』に、「まづ正月の名物は……坊門加留多、金賀留多、歌かるた」とい う一文があります。カルタが正月だけの季節的遊戯とみなされたのは伝統的な風習であっ たようです。
英国でも十五世紀の後半まで、カード・ゲームはクリスマスの十二日間に限って遊ぶのが 公に許されるという習慣がありました。東西ところをへだてながら、カルタが季節娯楽と 決められていたことは興味のある事実です。
輸入プレーイング・カードがトランプという名で、急に人気が出始めるのは、欧化政策の
はなやかであった明治二十年前後です。明治二十年一月九日付けの『東西日日新聞』には、
大阪の流行と題して、「昨今大阪市中にては花骨牌トランプの類が頻りに流行し、随て該
物品の売捌も多分なるが、其かはり双六等は更にうれずと云ふ」という記事があります。
いわゆる鹿鳴館時代、外国人は新しいゲームをしきりに日本人に教え込もうとしたようで
す。明治二十年に、日本でおそらくはじめての本格的なトランプ教本が生まれます。その
名を『西洋遊戯かるた使用法』といいます。この本の第一章に「トランプの性質」として、
トランプは西洋遊器の一種にして吾邦の佳留多に似たる所あれば、之を西洋かるた
と訳しても可なるに似たれども、夫にては意味茫然として西洋のかるたの内にて何
れの分なる事か判然せざるゆゑ、尚元の名を存してトランプと云ふを好しとす。是恰
も西洋の帽子を西洋帽子称せずしてシャッポ、燈檠をランプと謂ふがごとし。
という一文があります。この本家の取り違えというべき表現に、カルタという言葉がいか
に違和感も無く、日本人の生活にとけ込んでいたかということをあらためて感じます。自
分たちの祖先が、カードを「賀留多」につくりかえていたことをすっかり忘れていたほど
カルタの日本化は完璧であったわけです。